ようやく見えてきたのは現実だけだった

私はこれまでの負け人生について欝々と考えることが幾度もあって、いい加減そんな自分に飽き、嫌気がさしていたところだった。家族にも友達にもそう軽々と何度も言えるはずもなく、仕方なくお金を払って専門のお医者さんに話を聞いてもらったりお薬を処方してもらったりする日々が続いていた。

そんな中で、ふらりと立ち寄ったパワーストーンのお店で、オーナーの女性から「誕生日を迎えたあたりで今まで見えていなかったことが見えるようになってきますよ。今は苦しくても、だんだんいい方向にむかうようになります。だから誕生日が来るのを楽しみにしてね」と言われたのだ。
その言葉に心から救われた。
このことを友人に軽く話したところで「そんなん誰にだって言えるじゃん(笑)そういうのはセールストークだよ。石売るためにそれっぽいこと言ってんの(笑)」と半笑いで返されたが、私の心の痛みに対してそれっぽいことを言うことすらしなかった自称親友の貴方が、いったい何を言うんだと思ったけれど黙っておいた。
別にセールストークでも私は構わないのだ。
私の目を見て、私のことを考えて優しく強い言葉をかけてくれたことが嬉しかったのだから。
それに、実際に私がそのお店で購入したものは数千円のネックレスだ。自由に選んだ石を組み合わせて作ってもらったものだが、値段を最後に聞いて驚いた。思っていたよりずっとずっと安価だったからだ。

以降の日々はときどき落ち込んだりするもののそれなりに安定して過ごすことが出来た。
病院でもらった薬で意識もうろうとする日々よりもずっと健康的だった。

誕生日を迎え、それからしばらく過ぎた今、ようやく分かってきたことがある。
なんで気付かなかったんだろうって思ったけど、気付いてたけど認めたくなくて見えていないふりをしていたのかもしれない。

私は、誰かから“それほど”求められていたわけじゃなかったってこと。
家族からも。友人からも。これまでの恋人からも。
あなたのことはそれほど っていうドラマがあったけど、内容は知らないけどまさにその言葉のとおりだ。
私は誰のいちばんにもなれなかった。
母の一番はかわいい孫。私が親友だと思っているあの子の一番は別の女の子。これまでの恋人の一番は私の知らない誰かさん。
仕事だって、私じゃなきゃ回らないなんてことない。
いくらでも代わりはいる。替えがきく。いれば少し便利なくらいの、そんな女。
あーあ。一度くらいは大好きな人から愛されてみたかった。

嫌でも分かってしまった事実、現実から、目を反らしたくて仕方ない。

整形微課金者の苦悩はこれからだ!

プチとは言わないのかもしれないけれどもちょっとした整形をしている。
私は昔から自分がブスであるということを自覚していたが、顔の不具合をどうにか「クラスのお調子者」というキャラクターで補おうと、無理して明るく振る舞っていた。
具体例を挙げれば、「スクールカースト上位にいる運動部男子と仲良くなり、一緒になって授業中に騒ぐ」だとか「その男子と私とでどちらがより面白いことが出来るかを競ったり」だとか「そんなことをしながらも問題児にならぬよう、教師に気に入られるような言動をとったり」だとか。今思い返せば、そのころの私は俗に言うリア充だったような気がする。
(はたから見ればただの無理したキョロ充だったかもしれないが。)

私の知らない生徒でも私のことを知っていたし、次はどんなバカなことをやらかすんだと期待の目で見られるのもままあることだった。そのことに対し別段プレッシャーを感じることも不快になることもなかった。自分が受け入れられている、好かれていると思いこんでいたからだ。
しかしある日、同じクラスの男子生徒のMをからかって「●●のこと好きなんでしょwねえww告っちゃいなwww」なんてことを●●の目の前で言ったとき、マジで●●に想いを寄せていた男子生徒はカッとなって「うるせえなお前に関係ないだろ!ブス!」とマジなトーンで吐き捨てたのだ。

ブス。面と向かって言われるとけっこうなダメージで、そのときの私はそのまま口をつぐみ、何も言い返すことが出来なかった。そうしてあっけなく私の性格は一気に暗くなった。心の扉を完全に閉ざしてしまった。
授業中に騒がなくなった。男子と面白さを競うこともなくなった。周りは突然おとなしくなった私を不思議に思っていたようだが、少しするとそれを気にする者もいなくなった。
私の性格を変えてしまった男子Mは、私など見向きもしなかった。よほど●●のことで恨んでいたのかもしれない。もしくは、自分の発言など覚えていないのかもしれない。

今日にまで至る私のトラウマを誰かに語れば「そんなこと中学生くらいの年ごろならよくある話だ」「気にしすぎ!男子なんて美人が相手でもブスって言うもんだ」なんてふうな励ましをくれたり意見を述べたりするが、誰がなんて言おうとも、今の私の根本を作ったのはMによる暴言なのだ。
ブスだから、お前には関係ないと怒られる。顔が悪いせいで損をしたのだ。どんなに見た目以外の部分で取り繕っても、結局ブスはブス。私は父親にそっくりな自分の顔が大嫌いだった。そんな大嫌いな顔をMにブスだと指摘され「ああ、やっぱりブスはダメなんだな。可愛い●●とブスな私は大違いなんだな」と痛感したのだ。そうして中学時代の半分は息を押し殺すようにひっそりと過ごした。

高校生になってもブスは変わらない。ただ化粧を覚え始めたことと、長年のスポーツのおかげでスタイルは悪くなく、容姿で貶められることはほぼゼロに近かった。しかし彼氏は出来なかった。Mの一件で、男子への恐怖心をほんの少し抱くようになっていたからだ。
そのころから美しい顔への憧れがどんどん強くなり、綺麗になりたい、可愛くなりたいと思い詰めるようになった。ヴィジュアル系にはまりだしたのもこの頃からのように思える。しかし自分の顔を手術で変えることにはまだ踏ん切りがつかず、いびつな化粧をして学校へ通う日々が続いた。

高校を卒業したころに整形を決意する。どこのクリニックでも安価で埋没法を受けることが出来、さらにそのころに行われていたキャンペーンではもともと安価な金額がさらに安くなっており、この機を逃せないと意気込んでクリニックに赴いた。
しかし医師によれば私のまぶたは脂肪が厚く、希望する二重のラインは埋没法では作れないということだった。医師が特殊な器具を用いてまぶたに二重のラインを作り、「埋没でやるとこんな感じですね」と見せてきたその目は、どう見てもギリギリ奥二重でしかなかった。それもまぶたの重みでいつか取れてしまうのではないかというほど、元の目からの変化はほとんど見られない状態だった。
私の希望は「すっぴんでは眠たそうに見えるほどの平行二重」だった。しかし埋没法ではそれは叶わない。でもどうしても整形はしたい。目を大きくしたい。そうすれば自分は幸せになれると思いこんでいたからだ。
同伴してくれていた母に泣きついてお金を出してもらい、埋没法よりもずっと高価だった脱脂・二点どめの手術をその日に受けられるようになった。嬉しくて嬉しくてたまらなかった。これで自分は綺麗になれる。もうブスと言われることもない!意気込んで手術台に臨んだ。

手術は滞りなく終わった。手術そのものは麻酔が効いているから何ともないが、その麻酔が本当に痛くて、今思い出しても恐怖するほどだ。まぶたの裏側に注射されるあの痛みは忘れられそうにない。それから、手術が終わったばかりの私のひどい顔を見たときの、母の何とも言えない表情。あれもまた、いつまでも忘れられない。

だけれど、整形をして良かったと心から思っている。
暗かった性格が一気に明るくなった。人の目を見て話せるようになった。他人から好かれるようになった。彼氏も出来た。友達も増えた。それらはすべて、私の見た目が良くなったからだと思っている。
人の価値は見た目で決まると思っている。歪んで凝り固まった、虚しい思考だと他人から思われようと、その考えを変える気はない。変えられるような出会いがあるなら望みたいくらいだ。
まったく同じ性格・年齢・生活状況の女二人が居て、ブスから告白されるのと、美人から告白されるのと、どちらが嬉しいか?助けを求められたらどっちを選ぶか?そんなの、答えは分かり切っている。
私は他人から愛されたいし、求められたいし、助けて貰いたい。そうやって生きていきたい。

これから先もしもMに対面することがあるとしたら、私はあの日の「ブス」が忘れられないということを言うつもりだ。そんなことを今さら言われてもと迷惑に思われるかも知れないが、私はそんなことでもう十年以上苦しめられ今でも心を病んでいるのだから。

キスしたらもうセックス出来るかもしれないとか思っちゃうような糞短絡思考の童貞はイケメン以外死んでいい

アラサー童貞と付き合っていたときの話。
その男は顔は整っていたしスタイルも悪くなかったが過去に彼女がいたことはなかった。もしかして整形済みの元ブサメンか?とも疑ったが、まあ結婚するわけでもなし、私もいじってるし(いじってる件に関しては別記事に書く。)たいして長続きしそうな気もしないし、遊ぶくらいならどうでもいいかと付き合いを始めた。
その男は何をするにも「あ〜付き合い指南サイトとかめっちゃ見てるんだろうな〜」っていうような行動ばかりだった。とりあえずこちらを思いやってくれているのは分かるしありがたいが、そこにテメーの意思はあんのか?と問いただしたくなるような、てんで中身の伴わない行動だった。
普通彼女へのプレゼントに●ッシュとか選ぶか?そういうのって女同士の誕プレに選ぶようなものじゃないか?私の中ではそういう認識がある。まぁよくわからないアクセサリーとかよりはマシだしラッ●ュ好きだからいいけど。

書いてて自分のクソさに胸糞悪くなってきた。しかし書く。
相手に対してやり直したいとは一切思わないが、相手の行動を思い返せばセックスがしたいがための気遣いばかりだったので、妙な腹立たしさが残っている。
こっちこそヤリマンのくせにふてぶてしさ甚だしいな。ハハッ

あるデートで夜景スポットみたいなところに行ったとき、なんとなくいい雰囲気になってこちらからキスをしたことがある。すると相手は好機とばかりに舌をベロベロ突っ込んできたがこれがまたヘッッタクソ。
そこ舌じゃねーよ顎なんですけど?そもそもそんなディープなキスがしたくて顔を近づけたわけじゃないんですけど……と若干引いた。まあイケメンだったから良しとする。
このキスのヘタクソさを体感して、「付き合うのもキスするのも本当に初めてなんだろうな……」としみじみ思った。

その夜景スポットから出て晩ご飯を食べに行ったとき、相手はずっと何かを考え込んでいた。私は疲れていたので正直もう帰りたかった。一緒にいてもあまり楽しくないのだ。
「……あのさ、」
相手が意を決したように切り出したので何?と優しく聞いてやると、
「さっき夜景見に行ったじゃん?……あの続き、しない?」
と言うのだ。あの続きってどの続きだ?と考え込んで浮かんだのは先ほどのクソアンドクソヘタクソなキスのことだった。私の中ではキスの続きはセックスではない。あくまでキスはキスだしセックスはセックスだ。しかしながら相手の短絡思考の中ではキスしてさらにディープキスが出来たらセックスも出来るらしいのだ。恐ろしい限りである。
その時点で時間はもう遅く、そこからホテルを探してセックスをすることを考えると帰りは日付を跨いでしまう。翌日も普通に仕事に行く身としてはイヤだったのだが(相手もそうだが)、ここで
「はぁ〜?何言ってんの〜?もしかしてキス出来たからセックスもいける!とか思ってんのバッカじゃねーの〜?恋愛指南サイト見てシコシコ勉強してんならもっとちゃんとそのスカスカな脳みそ使って頑張れよカス!!んな誘いされたら女は『体目当てなんだ』って思うからね?アホなの?バカなの?いっぺん死ね!」
とでも罵倒したらこの童貞は二回目のデートで初カノにめちゃくちゃ言われて捨てられたという一生のキズを負うだろうし、私もセックスするのは久しぶりだったので性欲もあり、ホテル代も相手もちだしまぁいっか〜とどうでもよくなり、「うん♡」なんて可愛く返事をしてあげたのだ。

ホテルにチェックインし互いにシャワーをすませ、あとはもうベッドでくんずほぐれつグチャグチャヌルヌルするだけといった場面で、おそらく相手は未だかつてないほど緊張していたのだと思う。
彼はトイレから戻ったとき、バスローブの裾がボクサーパンツの穿き口にひっかかっていることに気付いていなかった。ていうかシャワー浴びたあとにトイレ行くんじゃねーよ洗った意味ねえだろ。いろいろな感想を抱いたけれどグッと我慢して、雰囲気を壊さないようにベッドに倒れこんだ。

よっぽど気に入ったのか単にペッティングの仕方が分からないからそうしているだけなのか、相手はもうこれでもかというほど、ぶっちゃけヒゲの剃りあとが当たって痛いから不快だヤメロと思うほど、ディープなキスばかりしてくる。顔がめり込むんじゃないかというほど圧迫されて、けっこう本気で嫌だった。

……結果として、相手は私の中ではイけなかった。
これは決して私がガバガバというわけではない。相手が普段オナニーをするときの握り込みが強すぎるせいだ。このことでお互いに微妙な空気になりつつチェックアウトの時間になり、微妙な空気のまま帰路についた。
ちなみに相手は自分が脱いで置いておいたパンツの場所を忘れ、裸のまま「あれ?あれ?」と情けなくパンツを探してオロオロしていたので、優しく「イスの上にあるよ」と教えてあげた。なんか、とことんやる事がダサいのだ。
この残念セックスの次のセックスでは無事に中でイくことが出来たが、それで絆が深まる(笑)なんてこともなく、付き合っていくごとにだんだん気持ちが冷めていき、別れることになった。
顔が好みであろうと、やはり一緒に居て楽しくなければ意味がないのだなぁと思った私はすぐに次の相手を探したわけだけれど、アラサー童貞の彼はどんな気持ちだったのだろうか。
念願の初カノジョ、初デート、初キス、初セックス、初お泊まりetc……あらゆる初めてを私に捧げた彼は後悔していないだろうか?
なんにせよ、もう会うことはないだろうから答えは分からない。ただセックスに対してがっついていたことだけは確かだ。その結果がどんなにズタボロなことになろうとも。

童貞くん、キスの続きはセックスではない。その考えを変えないと彼女いない歴を更新するハメになるぞ。

「フォロワーさん」という言い方がいけすかない

どうも「フォロワーさん」という言い方がダメだ。正直に言えば気に食わない。私の周りには一定数のそういう表現をする人がいて、彼ら彼女らはあたかも表現者、発信者であるかのように振る舞い、自分の発言は強い影響力を持っている――と言いたげに語るのだ。

いや、まあ、実際そうなのかもしれないが。見ればフォロワー数は数百を超えていたり、千を超え、数千であったりもする。それだけの数に発言を視られているのなら、そういう意識を持つのかもしれない。


友人らはTwitterでの出来事を私に話すとき、私の知らない誰かのことを表現するときに「フォロワーさんが◎◎で◎◎だった」という具合に話す。それを何食わぬ顔で聞いているが、内心は「で、出〜〜ww“フォロワーさん”の話題〜〜〜wwwwww」である。

正直なところ顔も名前も知らない、ただ友人がTwitterで繋がっているだけの人の話なんて反応に困るのだ。さらに「フォロワーさん」とくりゃあね。もう辟易。

なにもわざわざ「私がフォローされてる側!」と主張せずとも「Twitterで仲良くしてる人」とかでいいじゃん。まぁそれじゃあ長いけど。


自分自身が「フォロワーさん」に設定されたこともある。これはTwitterで知り合った人との出来事だ。そもそもは私がフォローされた側であり、趣味が合いそうなのでフォローを返した。以来数年仲良く付き合っている間柄だが、その友人がaskで貰った「最近のいちばん楽しかった出来事」を聞かれた際に、私のことを指し「フォロワーさんと遊んだこと」と回答したことがあった。(フェイク有り)

えっ違くね!?確かにフォロワーだけどそもそもはそっちがフォロワーだったんじゃないの!???と、少々モヤッとしたことがあった。

回答自体はすごく嬉しい内容ではあったんだけど、モヤッと。


それは単純に表現の簡略化であり、見解の相違であり、私の妙なこだわりと思い込みが激しいだけのことだとは分かっているが。

「フォロワーさん」っていうのは、どうも気に食わないのだ。